ごはんのことを米と言う違和感|言葉が描く心の風景

最近、「ごはん」のことを「米」と呼ぶ人が増えているように感じます。
先日、息子が家に来たとき「米を食いたい」と言いました。
あぁ、またその言い方か……。
どうも私は、この「米」という表現に、今でも違和感を覚えてしまいます。


昔から、「米」と言えば炊く前の白くて硬いお米のこと。
「ごはん」は、湯気の立つ、あたたかくてふっくらした炊きあがったもの。
私はそう教わって育ってきました。学校の家庭科の先生も、確かそのように説明していたような記憶があります。

それなのに最近では、炊いたごはんのことを「米」と呼ぶのが当たり前のようになってきていて。
息子も、昼ごはんに何を食べたいか聞くと、「米食いたい」と即答したのです。

たしかに、麺やパンと区別するために「米」と言う方が便利なのかもしれません。
言葉は時代とともに変わるもの。そう思えば自然な流れなのかもしれないと、頭では理解できます。

でも、どうしても「米」と聞いた瞬間、私の脳内には炊いていない白いお米のイメージがふっと浮かんでしまうんです。
ちょっと笑ってしまうくらい、反射的に。


これは私だけではなく、きっと誰にでもあることなのかもしれません。
言葉が脳に描く“イメージ”は、その人の記憶や経験、時代背景によって変わるものだからです。

「ごはん」と聞いて浮かぶのが、母親の台所なのか、給食の時間なのか――
あるいは「米」と聞いても、それが生のお米ではなく炊きたての茶碗を思い浮かべる人もきっといるはずです。

同じ言葉でも、その受け取り方や脳内で広がる映像は本当に人それぞれです。

カウンセリングの現場でも、クライエントさんの使う言葉には、そんな**“個人の背景”や“心の風景”**が込められていることがあります。

だからこそ、「なぜその言葉を選んだのか」を、ていねいに聴いていきたい。
言葉の違和感の中には、心の大切な記憶が眠っていることがあるのかもしれません。