「なぜモヤっとするのか ― 田舎の結婚観と『そういうものだから』の正体

この地域で暮らしていると、
「そういうものだから」と
説明されないまま受け取ってきた考え方が、
たくさんある気がします。

・家のことは女がやるもの。
・男は外で働き、家では休むもの。

疑問に思わなかったわけではないけれど、
わざわざ口にしてもいけない。
そんなふうに、いつの間にか馴染じませるしかありませんでした。

夫の転勤でこの地域に来た人が、
「なんだか、田舎の人の考え方に違和感がある」と
ぽつりと言ったことがあります。
最初は戸惑っていたその人も、
しばらくすると
「田舎にもいいところもあるよね」と言うようになり、
数年後、また都会へ戻っていきました。
その姿を見て、
私は少し不思議な気持ちになりました。

ここに残って暮らす人と、
いずれ離れる前提で暮らす人。
同じ景色を見ていても、
受け取っている重さは違うのかもしれません。

「慣れた」という言葉の中に、
納得と、あきらめと、
そして言葉にしなかった違和感が
一緒にしまわれていなかったでしょうか。


私が結婚するとき、
披露宴の招待客の数について、
年配の親戚から
こんなことを言われました。

「新婦側の人数が、
新郎側より多かったらだめだよ」

そのときは、
そういうものなのだと思って
深く考えませんでした。

今振り返ると、
そこには理由があったのだと思います。
当時は、結婚式の費用を
両家で折半するという考え方は
まだ一般的ではなく、
新郎側が多くを負担することも
珍しくありませんでした。

ましてや、結婚する二人が
貯めたお金で、自分たちのスタイルで
披露宴を執り行うなど
考えられなかったのです。

つまり、
人数の話に見えて、
本当は「お金」の話だった。

でも、その事情は
表立って説明されることはなく、
ただ
「そういうものだから」
という形で伝えられました。


違和感を静かに感じている

不思議なのは、
その「事情」が変わっても、
考え方だけが
今も残っていることです。

結婚の形も、
お金の出し方も、
夫婦のあり方も
少しずつ変わってきているのに、
「新婦側は控えめに」
「前に出ないほうがいい」
「夫側を立てるもの」
という空気だけは、
理由を失ったまま
当たり前として続いている。

それが、
田舎で感じる違和感の
正体なのかもしれません。


結婚について考えると、
今はもう
「家と家との結びつき」という感覚は
ずいぶん薄くなりました。

結納をしない人も多く、
仲人を立てることも、ほとんどありません。
海外で結婚式を挙げる人もいれば、
そもそも式をしない選択をする人もいます。

結婚は、
家同士の行事というより、
個人と個人が決めること
変わってきています。

だからこそ、
普段の生活では
そのことをあまり意識せずに
暮らしていける。

ところが、
お正月になると、
急に空気が変わります。

義実家。
嫁。
姑。
帰省。

まるで、
時間が巻き戻ったかのように、
「田舎の言葉」が
一気に前に出てくる。


違和感の正体を、静かに言葉にする

結婚の形は変わったのに、
特定の場面だけ、
昔の役割が呼び戻される。

普段は
「個人」として扱われているのに、
そのときだけ
「嫁」という立場になる。

この切り替えの急さが、
違和感を強くするのだと思います。

誰かが
「そうしなさい」と
命じているわけではありません。

でも、
そうしないと
「空気が悪くなる」
「面倒になる」
「説明が必要になる」。

だから、
多くの人が
理由を考える前に、
体が先に動いてしまう。


昔は、
家と家が結びつく結婚でした。
だから、
行事や役割が重かった。

今は、
個人同士の結婚です。
だから本来、
役割も話し合って決められるはず。

それなのに、
行事だけが
昔の形のまま戻ってくる。

このちぐはぐさが、
田舎で感じる
言葉にしにくい疲れの正体なのかもしれません。